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「哲学の木」講談社

 

民主主義

Democracy

4,000字)

 

橋本努

 

関連項目→自由、平等、政治、社会主義

 

 

 私たちは小学校・中学校を通じて、民主主義というものが他のどんな政治形態よりも「よい社会」であると教わってきた。しかし本当にそうなのだろうか。民主主義とは、民衆(被支配者すなわち権力を持たない人々)が支配する社会である。しかし民衆=被支配者は、支配者でないから民衆なのであって、支配者になれば民衆ではなくなる。いったい被支配者である民衆が支配者になるとは、いかなる理想をいうのか。最近の民主主義論は混乱を極めている。私たちが民主主義社会に生きているという常識も、それゆえまずは疑ってかかる必要があるだろう。

 

 

民主主義は西欧社会のシンボルか

 民主主義(=民主政=民主制)とは、その語源からいえば「民衆=人民(demos)」の「権力=支配」(kratia)を意味する。民主主義が最初の爛熟形態を迎えたのは、古代ギリシアのアテネ(B.C.4世紀)においてであった。そこでは20歳以上の男子市民(奴隷や移民を除く)が平等な参政権をもって立法や司法に直接参与し、公務については直接選挙や抽選や短期交代制を駆使して全員で負担した。しかし民主主義は、その当時も以降も、衆愚政治に陥ったり体制基盤が不安定化したりして、それが「よい社会」であるかどうかはつねに疑われてきた。哲学者ソクラテスが民衆裁判によって死刑宣告を受けたということもあって、プラトンをはじめ以降の哲学者たちは、民主主義を衆愚政治という否定的な意味で用いることも多い。ところが20世紀前半になると、西欧先進諸国において普通選挙権・社会権の普及・議会制の確立が実現し、これらをもって近代民主主義の確立が賛美されるようになる。民主主義は近代西欧文明を表すシンボルとなり、例えば日本のように戦争に負けた国では、外から他律的に与えられた民主主義の制度を実質的に根づかせるために、社会慣習や文化全般にわたって西欧文明を摂取しなければならないという強迫観念が生まれることにもなった。

 しかし他方においてマルクス主義は、立憲主義と代議制を特徴とする西欧型の民主主義を「ブルジョア民主主義」にすぎないとして、真の大衆参加を目指す「プロレタリア民主主義」を構想した。それはすなわち、民衆の支配によって経済の実質的平等化を実現し、さらにそこから国家による支配を消滅させるという理想である。しかしこの理想は結局、共産党による一党独裁体制に終わり、真の民主主義社会に結実したわけではない。そこで西欧近代における民主主義をどのように評価するかということが改めて問題になるわけである。はたして、民主主義を西欧社会が生み出した文化として受容し正当化するだけでよいのか。目下、問われているのはこの問題である。

 

 

民主主義は自由と両立しない?

 民主主義の理想の一つは、人々の合意や同意に基づいて政治を運営することにある。しかし人々の意見がバラバラで合意を得ることが困難になれば、社会全体が不安定化する。そこで合意形成を容易にして社会を安定させるために、地位や階級の格差を少なくし、また文化レベルにおいて「国民的一体感と文化的同質性」を生み出していくことが必要となる。具体的には、所得再配分の強化、住環境の平等化、ファッションや音楽やテレビ番組における流行の共有、標準語の強制使用と方言に対する蔑視、年長者の権威の否定、民衆内における差別廃絶と異邦者差別の容認、単一民族神話や敵国想定による一体感の創出、などの諸政策がそれである。

 しかしこうした政策は、少数者の抑圧、精神の凡庸化、個性なき一元的人間の産出、操作されやすい大衆などをもたらす点に疑念が生じている。民主主義を運営するためには、まずもって「合意形成」を容易にする必要があるが、しかし合意形成を容易にするためには、人々を文化的に画一化する必要があり、したがって個性の自由な発展を抑圧せざるをえない。また原理的にいって民主主義は、個人が国家の政治に参与することによって自由になるという理想を掲げる以上、「個人が国家の支配から自由になる」という自由主義の理想と相いれない。民主主義においては、できるだけ多くの人が政治に参与して、できるだけ多数の意思を実現することが望ましいとされるので、多数の人々が自由を不必要とみなせば、個人の自由を制限することに原理的な歯止めはない。ヒトラーの率いるナチス政権は、他ならぬ民主主義のもとで成立した。民主主義の原理を形式的に運営するだけでは、こうした独裁者の出現を防ぐことはできないであろう。

 

 

民主主義は代議制と両立しない?

 小さな社会では問題ないが、大規模な社会においては、すべての人が集まったり、またすべての意見を集約することは困難なので、代表者を選出して議会を開き、多数決原理に基づく間接民主主義を行う必要が生まれる。しかしそうした代議制による統治は、必ずしも民主主義の理念を体現しているわけではない。間接民主主義の理想は、代表者が人々の「民意」をすくい上げ、それを政策決定に「反映」させることにあるが、しかし人々があらかじめ民意なるものを持っているわけではなく、また代表者が民意を代表できるというのは擬制にすぎない。実際、議員を選出する選挙活動においては候補者が人々に働きかけるかたちになっており、人々が自主的に意思を形成しているかどうか疑わしい。

 また、代表者としての議員は民衆の利益や民意を反映するだけで本当によいのか、という問題がある。例えば民衆の多くが失業対策と積極財政を望んでいる時に、それを受けて赤字国債を大量発行し、将来世代にツケを回すことは適切な政策であろうか。議員たちは、国民のエゴにもとづく政策要求を抑え込み、批判的な討議を通じてよりすぐれた統治政策を発見していくべきではないだろうか。だとすれば、すぐれた代議制は、必ずしも民衆の意思を反映する必要はないのであり、それはむしろ少数のエリートたちのすぐれた政治的判断力にもとづいて運営されるべきだということになろう。そこにおいて民衆の参加は、少数のエリートを選ぶことに制約されるだろう。

 このように、代議制は必ずしも民主主義の理想を体現したものではない。では、真に民主主義を根づかせるためにはどうすればよいのだろうか。シュミットによれば、真の民主主義のためには代議制と官僚制機構を制限し、コミュニティや広場を通じて民衆が寄り合い、そこにおいて民衆の指導者に歓呼し喝采するような、直接的な政治空間を創設しなければならないという。しかしこうした指導者民主主義は、まさにヒトラーが利用した手段でもあった。われわれはこれを回避しなければならない。民主主義を安全かつ実質的なものへと根づかせるためには、別の理念を構想しなければならない。

 

 

民主主義の新たな理念を求めて

 17〜18世紀の市民革命においては、民主主義はまだ指導的な理念ではなかった。市民革命の理念は、「市民政府」(イギリス)、「自由・平等・博愛」(フランス)、「共和国」(アメリカ)であって、民主主義ではなかった。大規模な社会を運営するには、民主主義は不可能だと考えられていたからである。しかし19世紀になると、支配層から疎外された大衆を基盤とする急進派が、政治に参加する権利を要求する際に「民主主義」の理念を掲げた。そして以降の民主主義は、旧貴族・地主・資本家に対する民衆(すなわち権利を与えられていない虐げられた人々)の「抵抗の論理」を意味するようになり、それは一方ではヨーロッパ諸国における社会主義運動へと進展し、他方ではアメリカにおいて自由民主主義の論理へと結実していった。

こうした事情を踏まえるならば、近代民主主義の理念は、「他人に支配されたくない、他人を支配してはならない、政治に参加しよう、みんなのことはみんなで決めよう」という複合的提言命題に定式化される。言い換えれば近代の民主主義とは、@支配されていることへの抵抗であり、A他者を支配することの放棄であり、B政治的生活の養育であり、またC自発的な規範形成の理想である。以上の四つの要素は、しかし互いに矛盾する場合もあるので、これらのうちどれを強調するかによって、民主主義の理念とその構想はさまざまな方向に分岐する。

 民主主義の理念を@とAに求めるならば、「支配なき闘争」という理想に至る。民主主義がいったん制度として成立してしまうと、人々はかえって政治的無関心に陥り、また少数者に対する社会的抑圧を生み出すという危険がある。「支配なき闘争」は、そうした難点を克服するために、制度化されない運動としての民主主義を掲げる。それは支配なき社会を求める運動である。彼らは一元的な自己支配が他者に対する抑圧的支配をもたらすことから解放されるべく、社会における闘争関係を促進し、また自己の内部にも価値観の複数性を保持するように要求する。こうした提言は、「国民的一体感と文化的同質性」を拒否する点で、これまでの民主主義がもつ困難を克服しようとしている。

 これに対して民主主義の理念をBとCに求めるならば、「陶冶ある統治」という理想に至る。「陶冶ある統治」とは、すべての民衆がまず最小行政単位である町内会に参加し、そこにおいて選ばれた代表者が今度はより大きな行政単位(市や州)において活躍し、さらにそこから選ばれた代表者が中央議会に参加するという具合に、代表者選抜と討議とを階層的に組織化していくような統治システムである。このモデルは、たんに民意を反映するのではなく、民衆の政治的判断力(徳性)を洗練しつつ、集合的な意思決定を練り上げていく点に特徴がある。そこでは公共の事柄に従事することが道徳的であるとみなされ、私的生活に引きこもることは望まれない。「陶冶ある統治」は、形式的な民主主義の枠組みに加えて、民衆の実質的な参加と人格の陶冶を目指している。

 しかし以上のような二つの民主主義理念に対しては、伝統的な共通の価値を重んじる保守主義や、政治参加よりも政治的支配からの自由を求める自由主義による批判がある。保守主義や自由主義に対して、民主主義に固有の理念があるとすれば、それは、人々が闘争的な政治的実践を積極的に営むことができるように、そのための動機構造を社会のなかに作り出すことであろう。それは例えば次のような構想である。すなわち、各自治体ごとに「政治参加資格試験」と「政治不参加罰金制度」を創設し、衆愚政治を防ぐと同時に、デニズン(非市民)にも選挙資格を与える。さらに各種フォーラムの開催を公的に支援して、論争的な人間関係を奨励するという制度案である。こうしたアイデアを各自治体ごとに異なる基準で試みるならば、われわれは民主主義のすぐれた構想を、試行錯誤のうちに発見できるかもしれない。

 

 

◆参考文献

アリストテレス(山本光雄訳)『政治学』岩波文庫

トクヴィル(井伊玄太郎訳)『アメリカの民主主義(上・中・下)』講談社学術文庫

ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』岩波文庫

.ヘルド(中谷義和)『民主政の諸類型』御茶の水書房